本日は建国記念日。
いわば日本国の誕生日である。
かつて建国記念日は紀元節と言ったが、その日本国の誕生日である紀元節を祝う歌があった。
紀元節の歌 1893(明治26)年-官報3037号付録 作詞 高崎正風 作曲 伊沢修二
一
雲に聳(そび)ゆる 高千穂の
高根おろしに 草も木も
なびきふしけん 大御世(おおみよ)を
仰ぐ今日こそ たのしけれ
二
海原なせる 埴安(はにやす)の
池のおもより 猶ひろき
めぐみの波に 浴(あ)みし世を
仰ぐ今日こそ たのしけれ
三
天(あまつ)ひつぎの 高みくら
千代よろずよに 動きなき
もとい定めし そのかみを
仰ぐ今日こそ たのしけれ
四
空にかがやく 日のもとの
よろずの国に たぐいなき
国のみはしら たてし世を
仰ぐ今日こそ たのしけれ
作詞の高崎正風は、明治天皇の侍従および御歌掛、宮内省御歌所初代所長を務めた歌人であるが、もと薩摩藩士で、島津斉彬の遺志を継いだ久光の信頼厚い、尊皇の士でもあった。
久光の不興を買って沖永良部島への遠島になった西郷南洲翁の召還で決定的役割を果たした人物であるが、大政奉還後の王政復古の大号令を控えた時期に、後藤象二郎に同意して、徳川寄りの運動を行ったため、南洲翁に疎まれ、維新政府の主流からは外れてしまった。
だが、尊皇の士であることは間違いない。
だからこそ、当時行き詰まりを見せていた薩摩藩の勤皇活動の見地から、一度面識があるだけの南洲翁の召還のために、敢えて久光への諫言に挑んだのであった。
彼の尊皇の志は、歌詞にも十分見出すことが出来る。
一番にある「雲に聳ゆる高千穂」は、神話にある天孫降臨の地であり、霧島連峰の高千穂峰と高千穂峡の二説あり、ともに日向、現在の宮崎県にあるが、薩摩国学は霧島説に立っていた。薩摩藩出身の勤皇の士は皆この説に立っていたといってよい。
三番「もとい定めし」、四番「国のみはしらたてし世を」などに、われらの世代が命を擲って、王政復古を行い、皇基を立てたのだという自負が窺えよう。
いまやご皇室を仰げば、将来を思って、どこか哀しみを感じてしまう時代にあるが、かつては、「仰ぐ今日こそ、たのしけれ」と国民こぞって素直に祝えた時代があったのだ。
建国記念日を公式に紀元節と言ったのは大東亜戦争の敗戦までである。
例によってこれを廃止させたのはGHQである。
日本の伝統破壊、歴史破壊の根源をたどっていくと常に顔を出すのが彼らである。
GHQが紀元節に反対した根拠は次の通りである。
「この日が許されるべきではない根拠は、それが神話的起源の日であるからだけでなく、むしろそれが・・・超国家主義的概念を公認し、かつ一般占領目的に背くものだからである」(ニューゼント局長覚書)
もちろん占領目的のひとつは、日本の伝統・歴史を破壊し、再びアメリカに歯向かえないようにすることにあった。
当然ご皇室の弱体化もそこには含まれている。
新祝日法案から、国家の起源にして、ご皇室の起源でもある紀元節は省かれた。
学者としての逸り心、いわば功名心から、戦前、神話破壊の先駆的仕事をして、戦後、左翼にこれを利用された津田左右吉でさえ、紀元節を建国記念の日として復活させたいとの希望をもらした。
所功氏の「『国民の祝日』の由来がわかる小事典」(PHP新書)によると、その趣旨は、
(イ)紀元節は建国を記念する意味のものであるから、それが無くなったのは、日本の国家の存在が軽んぜられているように見えて、国民たる我々はひどくこころさびしい。・・・わが日本の国家の象徴としての天皇の御誕生日を、よろこびの日として慶賀するとともに、日を定めてその国家の誕生を記念することによって、国民としての自覚を年々新たにしたいものである。
(ロ)私一人の意見としては、神武天皇の東遷ということも、橿原奠都(遷都のこと)ということも、歴史的事実とは考えられないが、よしそれにしても、いつの時にか我々の国家が建設せられたこと・・・は動かすべからざる事実である。そうしてそのことが重大なのであるから、・・・それを明治時代に定められた紀元節のように、日本紀(日本書紀)の記載に従って、それを太陽暦に換算し、二月十一日としても差し支えはない。・・・それはちょうど歴史的事実でないにもかかわらず、十二月二十五日をキリストの、四月八日を釈迦無二の、誕生を記念する日として、それを慶賀するのと同じである。八十余年来、国民が国民が慶賀してきたこの日に対するこの心情は無視すべきではない。
まったく常識的見解であろう。
国民がその国家が出来た日を祝う理由としてまったく常識的である。
『日本書紀』によれば、神武天皇は「辛酉年の春正月庚辰の朔に、天皇、帝位を橿原宮に即す」、すなわち即位されたということになっている。
これが皇紀元年とされたわけだが、中国から輸入された讖緯説による逆算の結果で定められた年次であるとの説が有力になって、歴史的事実とは認められなくなった。
つまり実際の紀元は不明なわけだが、国民が国家の紀元を祝う以上、それにふさわしい日は、この皇紀を太陽暦に換算した二月十一日をおいてほかにはないだろう。(ちなみに本年は皇紀二六七二年ということになる。)
津田は、続けて、こう結論付けるかと思いきや、春のはじめの日を定めてこれにすべきという、奇妙な私見を述べているのだが、記紀研究における資料批判にも見られる、彼の思考の不徹底振りを表しているように思える。
彼の神話研究のでたらめさについては、萩野貞樹氏の論文や田中卓氏の「祖国再建(上)」の参照をお勧めする。
田中氏の上記著作は、津田に始まり、戦後巧みに時勢に迎合した唯物史観の古代史学者(井上光貞、直木孝次郎、井上正昭など)の、学者としての態度から、学説まで、徹底した資料の読み込みからの批判を展開し、そのことによって田中氏自身の古代史像が浮かび上がってくるように書かれている。
田中氏は自身の史学を正統史学と読んでおられるようだが、これは平泉澄の史学の継承者としてである。
平泉史学に貼られているレッテル、いわゆる「皇国史観」は、左翼が例によって政治的悪意に基づいて貼りつけたレッテルで、安易な皇国美化史観と、国体護持史観である平泉史学とは分けて考えるべき旨を、氏は主張しておられる。 確かに田中氏の史学は皇国美化史観ではない。
この国の紀元を、限られた史料を凝視することによって、見極めようとしている。
それに比べれば、上記の伝統破壊学者の学説など思い付きのお遊びでしかないように感じられてくる。史料の読み込み、特に記・紀の読み込みがまったくなっていないのだ。
小沢一郎氏が信奉している江上波夫の騎馬民族征服王朝説然り、水野祐の三王朝更迭説然り。
もっとも正統的な学問手法の限界もあるだろうが、全体像としては、田中氏の説は、古代の日本社会の勢を、日本国創世の息吹を感じさせるものとなっているのである。私が氏の論述を呼んで受けた印象は、国史における本居宣長、というものであった。
戦後、大東亜戦争の敗戦を契機に、猖獗を極めた唯物史観という異端の学問の挑戦を受けた正統の学問が、田中氏を通じて、さらに強くなって、立ち上がって来たような印象である。
曲学阿世の学者が群がり興って、民を誑かしている戦後の状況の中で、氏の建国史は屹立しているのだ。
なぜ、このような正統な学者が、一般の人に知られるところが少なかったのだろう。
(氏の女系容認論はまだ読んでいないが、小林よしのり氏の『新天皇論』から察するに、所功氏などと同じ趣旨のものであるように思われる。
小林氏の直系論は納得できる内容のものではないが、所功氏の女系容認論についてはかつて痛烈に批判したことがある。田中氏の皇統説に付いてはまだ読んでいないので批判は差し控えたいが、氏が女系容認論であるからといって、氏の建国史まで捨てるのは大きな間違いである。
小林氏の説に付いては、津田左右吉の記紀批判と同質の過ちを犯すことになると心配している。津田の記紀批判が戦後どのような作用をしたかは、田中氏の『祖国再建(上)』に精しいが、皇室に対する敬愛の心を抱いていた津田氏は、その記紀批判を唯物史観の左翼学者に利用されて、全く当惑したのである。
中国共産党を後ろ盾にした左翼の狙いは、天皇制の廃止、次いで天皇陛下の処刑である。1970年前後に中国共産党が工作員に指示した指令『日本解放第二期工作要綱』を読まれよ。
昨年の参議院選挙に勝って両院過半数を達成していたら民主党は、憲法改正による天皇制の廃止、人民共和国憲法の樹立へと舵を切っていたことだろう。人民共和国とは、「中華人民共和国」「朝鮮民主主義人民共和国」と同質の人民共和国である。民主党の民主とはこの民主なのである。
この過程で、先の大戦の戦犯として天皇は人民裁判にかけられることになる。
民主党は参院選で敗れて、内ゲバに走ったが、まだ政権与党であり、背後に中国共産党の影がちらついている以上まだまだ予断を許さない。
若者に影響力を持っている小林氏の立論は、この日本解体工作を進める悪意の者たちに大いに利用されることになるだろう。津田氏の記紀批判が唯物史観の学者の聖典として持ち上げられたように。
小林氏は、天皇陛下の御意思を忖度する事の危うさを指摘した小堀桂一郎氏ら保守の忠告を受け入れるべきである。)
田中氏は古代史に関するひとつのコペルニクス的発想の転換をした。
すなわち、記紀の編者たちがなした、神代の巻を歴史時代の前に置くこと、それ自体が、すでにシナの歴史観、すなわち「から心」によるものなのだ、という発想の転換を。
これは本居宣長でさえ気づかなかった田中卓氏のまさしく「卓説」である。
その田中氏は、建国記念日について次のように述べている。
日本は「遠い昔に、いわばおのずからなる発展として国家を建設したのであるから、年月日の明らかでないのは当然で、・・・建国記念の日は、建国にちなんで、最もふさわしいと考えられる月日を祝日に選定するのが適切」である、と。
神武天皇の創業に始まる日本の建国史は本物である。
紀元が古すぎて明確でないにしても、記紀に記された開国の紀元を、近代合理思想の迷信を克服して、常識(やまとごころ)を取り戻し、素直に祝う心を一般国民が回復することこそが、伝統の再生の証となる。
天(あまつ)ひつぎの 高みくら
千代よろずよに 動きなき
もとい定めし そのかみを
仰ぐ今日こそ たのしけれ
空にかがやく 日のもとの
よろずの国に たぐいなき
国のみはしら たてし世を
仰ぐ今日こそ たのしけれ


by 稲垣秀哉
昭和天皇の御反省