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織田信長と真暦 ニュース記事に関連したブログ

2012/05/11 07:23

 

前回までさくらをテーマにした記事を連載したが、さくら(その弐)」で本居宣長の「真暦考」を紹介する中で、織田信長の本能寺の変が闇夜を選んで行われたことに触れた。

 明智光秀の謀叛の動機は諸説あっていまだ謎であり、言わば歴史の闇に属するものだが、少なくとも、信長が数十名の小姓衆を連れたばかりで京都に滞在中である上に、闇夜であることが、彼の「ときは今」との認識となって謀叛を後押ししたであろうことは想像に難くない。

 『信長公記』によると、彼が中国への出陣のために、坂本を発ったのが二十六日のことであり、丹波の亀山に一泊し、二十七日には愛宕山に参詣。何を思ったか、神前にて二度三度まで籤を引いた。
 さらに一泊し、二十八日には西の坊で連歌を興行した。
 明智光秀はここで初めて謀叛の意思を明らかにした。
 
 ときは今、あめが下知る、五月哉
 
 本能寺の変の名場面の一つである。
 この決断にいたるまでの数日、彼は、日々欠けていく月を眺めながら、迷いに迷いぬいて、意志を固めていったのだろう。

 旧暦(太陽太陰暦)にあって、朔(ついたち)は必ず新月で闇夜だが、謀叛はその晩、日付が変わった時刻に行われた。
 よって日付は二日ということになるが、一日の晩、すなわち新月が見守る中で行われたことになる。

 決行寸前の光秀の心境や如何。
 少なくとも、討たれる側の主君、信長のこの日月の運行に関する関心は別のところにあった。この辺の暦に関する意識の違いは、コントラストをなしていて面白い。

 実は、中国地方への出陣のため京都に入った信長は、この晩、公家衆を前に、暦の改変を話題にしていたのだ。

 この席で信長は、二月から四月にかけて行われた関東平定(武田勝頼の征討)やこれから行われる中国・四国地方への出陣について語ったが、そこで彼は、この年(天正10年)の十二月の後に閏月を差入れるべきとの意見を述べたのである。太陰太陽暦と閏月についてはさくら(その弐)」で解説した。

 これまでの日本の正式な暦である朝廷の暦(京暦・宣命暦)では、翌天正十一年の正月の後に閏月を差し入れることになっていたのである。
 太陰太陽暦は、古代において、支那より伝来したものだが、支那において暦は、時を支配するものとして、皇帝(天子)が制定するものとされており、これを踏襲して、わが国においても、天皇(天子)が制定するものとされてきた。そのため、朝廷では陰陽寮(おんみょうりょう)を置いて陰陽頭(おんみょうのかみ)が暦の作成を司ってきたのである。

 公家社会は古来からの慣習を重んじる。

 その席にいた勧修寺晴豊は次のように日記に書き留めているそうである。

「十二月閏の事申し出、閏あるべきの由申され候。いわれざる事なり。これ信長むりなる事と各申す事なり。」
 
 公家衆の反発がここに表れている。
 しかし、これは信長にとって、無理ではなく、有理だったはずである。

 信長の暦に対する関心は、古くまで遡る。
 そもそも「元亀」から「天正」への改元は彼の強く推したことであった。
 「元亀」の元号は不祥ということで、すでに元亀三年には朝廷において改元の議が起っており、三月二十九日には使者が信長と征夷大将軍・足利義昭のもとに派遣されていた。信長はこれに同意したが、義昭のほうはこれに掛かる経費の献上を拒んで、改元は棚上げされていた。
 九月、信長は将軍への十七条の諫言を行っているが、十条目には次のように書かれている。


「元亀の年号不吉に候間、改元然るべきの由、天下の沙汰に付いて申し上げ候。禁中にも御催の由候処、聊かの雑用仰せ付けられず、今に遅々候。是は天下の御為に候処、御油断然るべからず存じ候事。」


 そして、翌元亀四年七月、義昭追放の三日後、信長は改元の奏請を行い、その七日後には、「天正」への改元が行われている。
 改元の発議は朝廷からであったが、後にこれを熱心に推進したのは信長であったことがわかる。
 彼の理念である「天下布武」が、朝廷の改元案の一つ、「天正」という言葉に感応したのだろう。

 さて、改暦の問題に話を戻す。

 今、二十五年ぶりということで、五月二十一日の金環日食が話題になっているが(本州で見られたものとしては百二十九年ぶり)、実は信長が改暦の話題を持ち出した、この天正十年六月一日も日食であった。
 ただし、この日の日食は金環日食を10とすると6の部分日食であったという。

 日食はかならず、月が太陽の影に隠れる新月、即ち太陰太陽暦の一日に起る。日食は当時の暦でも推測が可能であったが、この時の日食は京暦では推測できなかった形跡がある。
 だから、信長もとっさに改暦の問題を口に出したらしいが、彼が改暦を主張したのはこの時が初めてではなかった。この年の正月にも信長は改暦の問題を持ち出していたのである。

 当時、関東では三嶋大社の作成する三嶋暦を代表として数種の暦が用いられていた。そして、それらは閏月の挿入に関して見解を異にしていた。
 信長は関東平定を前にして、支配地域における暦の一元化を図ろうとしていたらしい。甲州出陣の軍令(二月三日)を発する直前に、朝廷の陰陽頭・土御門久脩(ひさなが)と賀茂在昌(あきまさ)を安土に呼んで、濃・尾の暦者とその正当性について対決させている。二月の一日から二日のことだ。議論は平行線を辿り、結論は出なかったのだが、信長は京で作暦に携わる者を集め、改めて検討し直して、七日までに結論を出すよう命じた。その結果、京暦が正しいということになって、その結果は信長に伝えられた。
 
 天下に公正を求める信長は、宗論においてそうであった様に、専門学者による討論を通じて、より精確な暦による一元化を求めていたのだ。必ずしも京暦による一元化ということではなかった。
 以後、この問題は取り上げられた形跡はない。
 しかし、六月一日になってこの話を蒸し返したのは、おそらく、誰の眼から見ても、京暦に欠陥があることが明らかになったからだろう。

 後の江戸時代、三嶋暦は幕府によって正式な暦として採用されている。しかし、この問題に先鞭をつけていたのは信長だったのだ。
 信長は学者ではなかったが、天地と一体となった、本居宣長が後に言うところの「真暦」の感覚から、当時一流の学者が捕らわれている、言わば「からごころ」という「人作の巧」による暦の歪を正そうとした。
 とは言え、信長は天下の人々を納得せしむるところの権威たる「人作の巧み」そのものまでも否定したわけではない。意識的な政治、むしろ政事と表現したほうがいいかもしれないが、それはどこまでも「人作の巧」である。乱世における天下一統の事業はどこまでも「人作の巧」を必要としていた。彼はそれを誰よりも、大胆に、峻厳に、精緻に推し進めたのである。


 新月の夜に、公正な暦による統一を思う信長と、闇討ちを決行する光秀。


 ちなみに本日五月十一日は、一説によると、太陰太陽暦による信長の生誕日である。信長が安土城天主に降臨した日でもある。

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2012/04/17 09:10

 

木花咲耶姫(このはなさくやひめ)と言えば、日本を象徴する霊峰・富士の化身として知られる。
 葛飾北斎「富嶽百景」の冒頭にこの神を画題として取り上げている。

 

画像



「コノハナサクヤビメ」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%8E%E3%83%8F%E3%83%8A%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%AF%E3%83%A4%E3%83%93%E3%83%A1

 「室の八島」とも言われる大神神社(現栃木県。境内の池の中に八つの島があって、それぞれに神を祭った社が置かれ、そのうちの一つ浅間神社には木花咲耶姫が祭られている)を訪れた松尾芭蕉『奥の細道』に次のように記している。


 室の八嶋に詣す。同行曽良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て富士一躰也。無戸室に入て焼給ふちかひのみ中に、火々出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申。又煙を読習し侍もこの謂也」。将、このしろといふ魚を禁ず。縁記の旨世に伝ふ事も侍し。


 このように木花咲耶姫は富士山と結び付けられて親しまれてきたが、そもそも古神話に現れる八百万の神々の内の一柱で、富士山とは何の関係もない。
 『古事記』には次のように記されている。


 ここに天津日高日子番能邇邇藝能命(あまつひこひこほのににぎのみこと)、笠沙御前(かささのみさき)に、麗しき美人に遇ひたまひき。ここに「誰が女ぞ」と問ひたまへば、答へ白ししく、「大山津見神の女、名は神阿多都比賣、亦の名は木花の佐久夜毘賣と謂ふ」とまをしき。また「汝の兄弟ありや」と問ひたまへば、「我が姉、石長比賣あり」と答へ白しき。ここにの詔りたまひしく、「吾汝に目合せむと欲ふは奈何に」とのりたまへば、「僕は得白さじ。僕が父大山津見神ぞ白さむ」と答へ白しき。故、その父大山津見神に、乞いに遣はしたまひし時、大く歡びて、その姉石長比賣を副え、百取の机代の物を持たしめて、奉り出しき。故、ここにその姉は甚凶醜きによりて、見畏みて返し送りて、ただその弟木花の佐久夜毘賣を留めて、一宿婚したまひき。ここに大山津見神、石長比賣を返したまひしによりて、大く恥じて、白し送りて言ひしく、「我が女二たり並べて立奉りし由は、石長比賣を使はさば、天津神の御子の命は、雪零り風吹くとも、常に石の如くに、常はに堅はに動かずまさむ。また木花の佐久夜毘賣を使はさば、木花の栄ゆるが如く栄えまさむと誓ひて貢進りき。かくて石長比賣を返さしめて、ひとり木花の佐久夜毘賣を留めたまひき。故、天神の御子の御壽は、木の花のあまひのみまさむ」といひき。故、ここをもちて今に至るまで、天皇命等の御命長くまさざるなり。

(『古事記』 岩波文庫 倉野憲司校注)


「笠沙御前」とは現鹿児島県の笠沙町にあり、木花咲耶姫は要するに日向神話の神々の内の一柱である。天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)とこの姫の間に生まれた神の内の一柱、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)の孫が神武天皇である。

 明治維新は神武天皇の創業の精神に則ることが謳われたが、それを主導したのが薩摩藩であったのは偶然ではない。
 精忠組を中心とする薩摩藩士の勤皇の精神の土壌となったのが、この地で展開された、いわゆる日向神話であったのだ。
 彼らは薩摩国学によって、霧島連峰・高千穂峯こそが天孫降臨の地であると確信していた。だからこそ、慶応二年、薩長盟約の仲人役として重要な役割を果した坂本龍馬を傷の療養を兼ねて鹿児島に招待した際、吉井幸輔は霧島に案内し、龍馬はおりょうの手を引きながら高千穂峯に登ったのだ。

 龍馬も訪れた、霧島連峰山腹にある霧島神社は、歴代島津藩主の尊崇篤く、天孫・瓊瓊杵尊を主神とし、その父・彦火火出見尊、 その母・木花咲耶姫尊 も祭られている。

「霧島神宮御由緒」…http://www.kirishimajingu.or.jp/contents/goyuisho.html
「霧島神宮」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E5%B3%B6%E7%A5%9E%E5%AE%AE

 明治維新によって、神社は官幣大社となり、神宮となった。
 参道には、維新後、政府の高官となった、西郷南洲翁の弟・従道や精忠組の同志・税所篤らの献灯が並んでいる。

 

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(写真ではわかりにくいが、正二位侯爵西郷従道と彫られている。)
 


 木花之佐久夜毘賣(コノハナノサクヤビメ)。
 本居宣長は『古事記伝』の中で、厳密な古言の考証の上で、この名の由来を次のように説いている。


 名の意、木花(このはな)は、字の意の如し、佐久夜(さくや)は、開光映(サキハヤ)の伎波(キハ)を切(ツヅ)めて加(カ)なるを、通はして久(く)と云なり


 そして、木花が梅を指すとの説を一蹴して、それは特定の花を指す名ではないが、主に古人はさくらを念頭に置いてきた、としている。


かくて萬ツの木花の中に、櫻ぞ勝(スグ)れて美(メデタ)き故に、殊に開光映(サキハヤ)てふ名を負て、佐久良(サクラ)とは云り、夜(ヤ)と良(ラ)とは、横通音(ヨコニカヨフコエ)なり。…(中略)…されば此の御名も、何の花とはなく、ただ木の花の咲光映(サキハヤ)ながら、即ち主(ムネ)と櫻の花に因りて、然云なるべし。やや後には、木花と云て、即ち櫻にせるもあり、古今集の序の哥に、「難波津に咲くや木の花」とある、是なり。…


 「さく」と「さくら」という大和言葉に何らかの関連性があることは誰でも直感的にわかるだろうが、宣長の見解は常識に適っていて納得がいく。
 文字の渡来以前より、日本人にとってさくらは特別な木花であったことが、この名の由来を尋ねることから明らかになる。
 万物流転の中で、さくらをこよなく愛す日本人の心性は変わらない。
 変わったように見えて、その実、日本文化はその固有性を保ち続けているのだ。

 国體を守るために戦われた大東亜戦争の敗戦によって、マルキズムとアメリカニズムの猛威にさらされた日本において、伝統は危機に瀕したが、その本家であったソ連がすでに崩壊し、アメリカが衰退しつつある今日、これらの移入文化の国風化は常に、我々の目の前で、自覚されぬままに行われている。
 J・POPにおけるさくらをテーマにした楽曲の盛行などもその一つの現れと見ることが出来よう。アメリカから来たヒップホップと伝統的な感性を融合して、佳曲を創り出したケツメイシの「さくら」を、その一例として取り上げたのはそれが伝えたかったからである。


 俳聖・松尾芭蕉は奥の細道の旅の中から不易と流行というものを感得した。

 蕉門十哲の一人・向井去来の『去来抄』では、師の教えが次のように解説されている。


「去来曰く、蕉門に千歳不易の句、一時流行の句と云ふ有り。是を二つに分けて教へ給へる。その元は一つ也。不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず。不易は古へによろしく後に叶ふ句なる故、千歳不易といふ。流行は一時一時の変にして、昨日の風、今日よろしからず。今日の風、明日に用ひがたき故、一時流行とはいふ。はやることをする也。」


 時代を超える名歌、名曲、名文とは不易と流行の間にある「まこと」である。そうでなければ、時代を超えて、多くの人の心を永く揺り動し続けることは出来ない。
 なぜなら、言葉とは本来、「ま・こと」の一面、一端として表現された「こと(事)のは(端、葉)」に他ならないからである。古人の大らかな心にとって事(こと)と言(こと)は一体不可分であったのだ。その乖離には人の賢しらが作用しているが、それによって、伝統文化に深く根ざした、一般庶民の素直な感性まで蔽い尽くすことは出来ない。 

 これもまた理屈ではなく、現代であっても、我々の目の前で、自覚されぬままに起きている出来事である。ただ、それを自覚的に説明しようとすると理屈が必要になってくる、というだけのことだ。

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2012/04/13 11:15

 

 咲きこぼれ、風に舞い散りはじめたさくらが綺麗である。
 その中にいると、谷崎潤一郎『細雪』の有名な場面を思い出す。


 幸子は昔、貞之助と新婚旅行に行った時に、箱根の旅館で食い物の好き嫌いの話が出、君は魚では何が一番好きかと聞かれたので、「鯛やわ」と答えて貞之助におかしがられたことがあった。貞之助が笑ったのは、鯛とはあまり月並過ぎるからであったが、しかし彼女の説によると、形から云っても、味から云っても、鯛こそは最も日本的なる魚であり、鯛を好かない日本人は日本人らしくないのであった。彼女のそういう心の中には、自分の生まれた上方こそは、日本で鯛の最も美味な地方、――従って、日本の中で最も日本的な地方であるという誇りが潜んでいるのであったが、同様に彼女は、花では何が一番好きかと問われれば、躊躇なく桜と答えるのであった。

 古今集の昔から、何百種何千種となくある桜の花に関する歌――古人の多くが花の開くのを待ちこがれ、花の散るのを愛惜して、繰り返し繰り返し一つことを詠んでいる数々の歌、――少女の時分にはそれらの歌を、何という月並なと思いながら無感動に読み過して来た彼女であるが、年を取るにつれて、昔の人の花を待ち、花を惜しむ心が、決してただの言葉の上の「風流がり」ではないことが、わが身に沁みて分かるようになった。そして、毎年春が来ると、夫や娘や妹たちを誘って京都へ花を見に行くことを、ここ数年来缺かしたことがなかったので、いつからともなくそれが一つの行事のようになっていた。この行事には、貞之助と悦子とは仕事や学校の方の都合で缺席したことがあるけれども、幸子、雪子、妙子の三姉妹の顔が揃わなかったことは一度もなく、幸子としては、散る花を惜しむとともに、妹たちの娘時代を惜しむ心も加わっていたので、来る年ごとに、口にこそ出さね、少なくとも雪子と一緒に花を見るのは、今年が最後ではあるまいかと思い思いした。その心持は雪子も妙子も同様に感じているらしくて、大方の花に対しては幸子ほどに関心を持たない二人だけれども、いつも内々この行事を楽しみにし、もう早くから、――あの水取りの済む頃から、花の咲くのを待ち設け、その時に着て行く羽織や帯や長襦袢の末にまで、それとなく心づもりをしている様子が餘所目にも看て取れるのであった。

 さて、いよいよその季節が来て、何日頃が見頃であるという便りがあっても、貞之助と悦子のために土曜日曜を選ばなければならないので、花の盛りに巧く行き合わせるかどうかと、雨風につけて彼女たちは昔の人がしたような「月並な」心配をした。花は蘆屋の家の附近にもあるし、阪急電車の窓からでもいくらも眺められるので、京都に限ったことはないのだけれども、鯛でも明石鯛でなければ旨がらない幸子は、花も京都の花でなければ見たような気がしないのであった。

…(中略)…

 あの、神門をはいって大極殿を正面に見、西の廻廊から神苑に第一歩を蹈み入れた所にある数株の紅枝垂、―海外にまでその美を謳われているという名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廊の門をくぐるまではあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女たちは、たちまち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、
「あー」
と、感歎の声を放った。



 平安神宮まで花見に行かなくとも、阪急芦屋川駅附近のさくらでも、また、その辺の路傍に植えられた一本のさくらであっても、十分、その樹が作り出す淡い色の霞や雲に、「ああ」との感嘆の声を漏らすことはできる。
 『細雪』の舞台となった同じ芦屋に住んでいるとは言え、上流階級ではない、たまたまそこに住んでいるだけの自分には、鯛にせよ、桜にせよ、ブランドには関係なく、その美しさに感嘆することは出来るようである。
 上の名文で描かれた幸子の心持も少しわかるようになってきた。

 ちなみに、谷崎潤一郎関東大震災のあとに京都、次いで神戸市東灘区岡本に転居。住吉川沿いに旧居「倚松庵」(昭和十一年十一月から一八年十一月まで居住)が保存されている。『細雪』は芦屋の上流家庭の四姉妹を主人公に、その日常を描いたもの。幸子は妻松子がモデル。松子は四姉妹の二番め。
 一九四二年、戦中に執筆され、軍部によって連載を禁止されたが、その後も断続的に執筆は継続された。谷崎は『細雪』を書くことで、当時の日本にあった伝統美を残そうとしたのだとも言われている。一九四八年出版。芦屋には「谷崎潤一郎記念館」がある。 

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さくら (その弐) ニュース記事に関連したブログ

2012/04/06 10:54

 

この時期になると有線などで「さくら」をテーマにしたJ・POPがよく流れている。
 いつの頃からだろうか。
さくら」をテーマにしたヒット曲がなければ、一人前のミュージシャンとは言えないかのように、どんなミュージシャンでもさくらをテーマにした曲をリリースするようになったのは。
 春になればさくらを歌った歌の需要が高まるとの供給側の読みもあるのだろうが、逆に言えば、さくらという花が日本人にとっていかに大切な花か、様々な思いを託すに足る花であるか、それを表しているようにも思える。
 特に学生時代、春は進学の季節となっており、さくらは出会いと別れの表象となっている。この列島に毎年生じる無数の出会いと別れの多くの背景には、この樹が立って、見守っている。それはこれからも変わらぬ風景だろう。

 さらに遡れば、桜は古来から日本人の死生観の表象でもあった。
 前回紹介した和歌はその代表的なものである。多くの日本人が、それらの和歌に大きく共感し、詠み伝えてきた。

 そんな国民的な樹だけに、ラジオや有線で流れる「さくら」をテーマにした曲には力作が多い。ミュージシャンも持てる力を、個性を存分に発揮して、表現している。自然、そのミュージシャンの感性、その源泉となっているはずの人生経験が現れる。リスナーもまた、それぞれの感性、その源泉となっている人生経験に応じて、共鳴、共感するのだろう。

 若い時と違って、流行を追い求めることはしなくなったが、自然と耳に入ってくる音楽まで拒む理由はない。特にさくらをモチーフにした歌であれば、あ、さくらの歌だな、と一度は興味をもって聴いてしまうし、繰返し流れていれば、耳に残ってくる箇所があるものだ。

 最近で言えば(と言っても何年も前にリリースされた曲らしいが)、ケツメイシというヒップ・ホップ・グループの、その名もずばりさくらという曲のリフレイン部分が印象に残った。ヒップ・ホップというジャンルの音楽にはあまり関心がないのだが、このグループのヴォーカルの声質にはかねてから好感を持っていた。

さくら」の出だしはこうだ。


 さくら舞い散る中に忘れた記憶と、君の声が戻ってくる、
吹き止まない春の風、あの頃のままで



 リフレインは次のようになっている。


花びら舞い散る、記憶舞い戻る


 この曲は、さくらの花びらが舞い散る中で、忘れていた恋人との別れの記憶が甦ってくることを歌った歌なのだが、これを聴いて、江戸期の国学者・本居宣長が『真暦考』で主張していたことを思い出して、古来からの日本人の感性(宣長に倣って言うならやまとごころ)は、今も我々の庶民の生活の中に息づいていることにつくづくと感じ入ったのである。
 
 宣長の主張はこうだ。
 推古天皇の頃より、支那のよく整備された暦法がわが国に用いられるようになり、知識人は圧倒され、この、いわば「からごころ」に泥んできたが、「暦」という漢字を「こよみ」という大和言葉で訓じた事からも明らかなように、わが国にはわが国固有の「暦」の観念があった。
 これは彼の長年にわたる古語の研究から来る結論であり、「こよみ」とは、「来経数(きへよみ・・・けよみ)」からきた言葉であり、一日一日と次々に来経(きふ)るを数えゆくことである、という。
 この列島の自然と一体になった生活の中で、上代の人々は季節を感じ取ってきた。「春」「夏」「秋」「冬」という漢字の渡来以前に、わが国には「はる」「なつ」「あき」「ふゆ」という大和言葉が存在したのはその証拠である。

 ある人が宣長にこう問うた事があった。

「もし日次(ひなみ)のさだまりなからむには、たとへば親などのみまかりたらむ後なども、年々いづれの日をか其日とは定めて、しのびもしなむ。」


 宣長はこれに答えて言う。

「上つ代には、さるたぐひの事共も、ただ某季(そのとき)のそのほどと、大らかにさだめて、ことたれりしなり。後の代のごと、某月(そのつき)の某日(そのひ)と定むるは、正しきに似たれども、凡て暦の月次(つきなみ)日次(ひなみ)は、年のめぐりとはたがひゆきて、ひとしからねば、去年(こぞ)の三月(やよひ)の晦(つごもり)は、今年は四月(うづき)の十日ごろにあたれば、まことは十日ばかりも違いて、月さへ其月にあたらぬをりもあるなれば、中々に其日にはいとうとくなむあるを、かの上つ代のごとくなるときは、其人のうせにしは、此樹の黄葉(もみぢ)のちりそめし日ぞかし、などとさだむる故に、年ごとに其日は、まことの其日にめぐりあたりて、たがふことなきをや。さればこは、あらきに似て、かへりていと正しく親しくなむ有ける。」

 この主張を理解するには少し説明が必要であろう。
 日本では古くから太陰太陽暦が用いられてきた。これは月と太陽の周期で数える暦である。
 太陽は朝、東の空に昇って、夕方、西に沈む。そしてまた、翌朝には東の空に昇る。これが太陽の周期であり(実際には地球の自転の周期だが)、一日とする。
 一方、月の周期、すなわち満ち欠けは、新月(太陽光の陰になって見えない月)に始まり、三日目には三日月となり、十五日目に満月となって、再び欠けて行って、最終的に再び新月となる。これが月の周期であり、この一巡りを一月とする。
 だから、いつの月であっても十五日と言えば満月であり、一日と言えば新月、すなわち闇夜であった。
 例えば、今でも薄(ススキ)を飾って団子を供える十五夜の月見の風習として残っているし、中秋の名月と言えば、この旧暦における八月十五日の満月を指す。
 また、本能寺の変は太陰太陽暦では六月二日の出来事であり、ほぼ闇夜であったことがわかる。だからこそ明智光秀は主君である信長を奇襲(闇討ち)したのである。

 要するに太陰太陽暦では、某月某日と言えば、その年の何番目の月で、何番目の日かを指していた。今でも某月某日という表記をするのはその名残である。
 太陰太陽暦の問題点は次のところにあった。
 太陽の周期である一日を基準とすると、月の満ち欠けの周期は約29.5日となる。月の満ち欠け十二回分を一年とすると、12ヶ月で約354日となり(これを太陰暦という)、一年(太陽を一周し、季節というものを生じさせる地球の公転運動の周期)=約365日とは約11日の誤差を生ずることになる。当然これは年を経るごとに蓄積されていって、実際の暦、季節とは乖離していくことになる。

「太陰暦」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%B0%E6%9A%A6

 そこでこの誤差を埋め合わせる為に、閏月を適宜挟み込む。
 今、四年に一度閏年の二月が二十九日となって、一日の誤差を埋め合わせるが、これは一年を365日にすることによって、一年につき約0.2422日の誤差が生じるため(なぜなら自然現象である地球の公転周期が自転周期の整数倍とはならないから)、それを埋め合わせる目的で、四年に一度、一日を差し挟むのである。しかし、これも四年で、0.2422×4=0.9688日であるから、やがて蓄積した誤差をさらに埋め合わせる必要がでてくる。
 太陰暦によって生じる誤差とは、これのもっと拡大したものと考えればよい。
 それは一年に約11日もあるわけだから、閏月の埋め込みはかなり頻繁に行われることになる。それが要するに太陰太陽暦なわけだが、これは太陰、太陽の語が用いられていることからもわかるように、支那から渡来した陰陽五行説に依拠したものだ。

 宣長の「真暦考」を難じた論者が月の状態を指す「晦・朔」(月末を指す「みそか」と月初めを指す「ついたち」)「弦・望」(弓形の状態と円く満ちた状態を指す)を「天地のありかた」と支那思想風に解釈したことに対して、つまり、「からごころ」で捉えたことに対して、次のような反論を行っている。


「晦・朔・弦・望は、すなわち天地のありかたなりとは心得ず。もし天地のありかたならば、十二月の一めぐりと節気の一めぐりと必ず一つに運びゆくべきに、さはあらで差ひ(差異)あるは、これ天地のありかたは此二つ別あるものなり。其別なるものを一つに合せたる暦法は、人作の巧なり、何ぞ天地のありかたと云事を得む。人作なる故に閏月をおかざる事を得ず。閏月といふもの、もと自然の事にあらず。彼の二つを強(ひ)て合さんために構えたるものなり。さればこそ、西の方の国々の暦には、閏月をおかぬもあるなり。人作なる故に、其法いろいろまちまちなるぞかし。」

 「西の方」とは西洋のことで、蘭学、すなわちオランダから入ってきた暦法を踏まえて宣長は言っている。彼は博学で、その主張は、地球が丸いことも、日本が世界から見て木の葉のような小さな島であることも踏まえた上でのものであったのだ。
 彼が「人作の巧」というとき、おそらく、そこには「からごころ」を突き詰めた荻生徂徠が『弁名』で説いたところの「聖なる者は作者の称なり」との言葉が念頭にあったはずで、彼が「備わらざる者なし」とした古代の聖人の叡智でさえ、天地自然の妙を尽くすに足りない、支那から渡来した暦法と現前としての天地のありかたとの乖離はこの問題にも現れているではないか、というのが宣長の言いたかったことだろう。
 より精緻なオランダの暦法を引き合いに出したのは、そのことを証するためであっただろう。人作の巧みということなら、支那の暦法以上のものが現にありますよ、と。
 彼はさかしらな人作の巧みを超えたところに、古学の眼を据え、それを確信するところまで突き詰めて思考した人であったから、おそらく、現代の精緻な自然科学をもってしても、彼の確信を揺るがすことは出来なかっただろう。

 彼は晩年次のような歌を詠んでいる。

「聖人は、しこのしこ人、いつはりて、よき人さびす、しこのしこ人」

 彼の古学の眼によれば、朔(ついたち)とは「つきたち(月立)」、望(もち)とは「みち(満)」であり、晦(つもごり)とは「つきごもり(月隠り)」(三十日頃の現象であるから「みそか」とも)となる。 
 日本の知識人はこの支那の暦法に泥んできた。歌人達もまた日常においては支那の暦法に泥んでいたかも知れないが、古人の伝統を引き継いだ和歌の世界においては、その古語、大和言葉を詠み継いで来たのである。

 宣長の言う「真暦」、これは「まことのこよみ」と読むべきだろうが、それは自然と一体となった古人の生活の中で育まれてきた暦の観念であり、これもまた、古人の日神月神への信仰という問題に直結していくのである。


 話が難しくなってしまったが、それもこれも彼の思想を咀嚼しきれていないことからくる解釈の未整理が原因である。

 話をケツメイシの「さくら」に戻すことにする。

 歌は舞い散るさくらが忘れていた恋人との記憶を呼び覚ましたことをモチーフにしているが、モチーフ自体は、大したことのない、ありふれたものともいえる。しかし、そこが大事なのであって、ある条件下で忘れていた記憶が呼び覚まされることは、誰にでも経験のあることだ。それだけに民族を超えた普遍性を持つテーマと言えるだろう。
 これはある国や文明が他国他文明に無理に押し付ける普遍主義とは違う。

 宣長の言葉をもう一度引用しておこう。


「かの上つ代のごとくなるときは、其人のうせにしは、此樹の黄葉(もみぢ)のちりそめし日ぞかし、などとさだむる故に、年ごとに其日は、まことの其日にめぐりあたりて、たがふことなきをや。さればこは、あらきに似て、かへりていと正しく親しくなむ有ける。」


 宣長はここで、もみじを引き合いに出しているが、「その人のうせにしは、さくらの樹の花びらの舞い散りし日ぞかし」と言ってもよかったはずである。ただ、さくらをこよなく愛した彼には、この樹に託した想いで心ははちきれんばかりとなっていて、別れという特定の記憶を呼び覚ますたとえに用いるには適していなかったのかもしれない。

 そういった自然と一体になった、古人の大らかな生活体験から生まれた暦こそ、真の暦であり、人作の巧みから生まれた符牒は、精巧に見えて、その実、天地自然のありかたとはずれを見せている。
 宣長がここで、真暦を「粗きに似て、却って、いと正しく、親しく」と言っているのは、大まかかもしれないが、却って天地自然のありかたと一体となっていて、ずれがないことを言っているのである。
 特に「正しい」だけでなく、「親しく」と言っていることに留意しておきたい。

 彼によれば、考えるという意味の「かんがふ」という言葉は、「かむかふ」の音便で、「むかえる」ことである。物をむかえ、親しく交わることである。その事によって、「他のうへにて思ふ」ことから「みづからの事にて思ふ」に転じて、深いところまでを知るに至るのである。
 これは人間交際についても当てはまる。ある人の深きところを知るには、彼をむかえ、そして親しく交わるしかない。理解の深さはその親しく交わった程度に応じて変わってくるだろうが、その理解は、経験と密接に結びついて、心に深く刻み付けられる。たとえ別れを経て、日常生活から忘れ去られたとしても、ある条件下、ある状況下で、記憶は鮮やかに甦る。
 彼の主張が大変考え抜かれたものであることは、『真暦考』という題ひとつをとってもわかるだろう。まさに、まこと(真)のこよみ(暦)をかむかえ(考)た末でのあげつらいなのである。

 宣長のこういった「考え」からすれば、世の大方の知識人は、実は何でも知っているように振舞いながら、実は何も「考え」ていない人、ということになろう。「からごころ」を批判した彼が現代に生きていれば、同じ「考え」から、現代の「からごころ」いわば「洋心」を批判したことは間違いないところだろう。

 さて、話がまた「さくら」から離れてしまったようである。
 最後にさくらをこよなく愛した宣長のさくらを詠んだ和歌のいくつかを紹介して終わることにしよう。彼がさくらに託した想いがはちきれんばかりだった、との意味がわかるはずだ。
 

わするなよ わがおいらくの 春迄も 
わかぎの桜 うへし契を



 これは三十歳のときの詠歌。


めづらしき こま(高麗)もろこし(唐)の はなよりも
あかぬ色香は 桜なりけり



 これは四十四歳のときの自画像の賛。


我心 やすむまもなく つかはれて
春はさくらの 奴なりけり



此花に なぞや心の まどふらむ
われは桜の おやならなくに



桜花 ふかきいろとも 見えなくに
ちしほにそめる わがここゝろかな



 最後に六十一歳のときの自画像の賛で、あまりに有名なこの一首。


しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 
朝日にゝほふ 山ざくら花

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さくら (その壱) ニュース記事に関連したブログ

2012/04/02 17:22

 

花のいろは うつりにけりな いたづらに 
我が身よにふる ながめせしまに       


小野小町 (『小倉百人一首』)


久方の 光りのどけき 春の日に
しづ心なく 花の散るらむ          


紀友則 (『古今和歌集』)


世の中に たへて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし          


在原業平 (『伊勢物語』)



西行法師の和歌三首


春風の 花をちらすと 見る夢は
さめても胸の さわぐなりけり
        


願はくは 花の下にて 春死なむ
その如月の 望月のころ            



仏には 桜の花を たてまつれ
わが後の世を 人とぶらはば            



 (月と桜をこよなく愛した西行法師。二首目の歌を詠んだ翌年の如月の、桜の咲くころに、河内葛城山の弘川寺で入寂したという。)



治まれる 大和の國に 咲匂う 
幾萬世の 花の春風 
                 

徳川家康 (『徳川実紀』) 


(これは長い戦乱の時代を経てようやく成った平和を寿いだ和歌。代作の可能性が高いが、家康が、その死の直前に太政大臣拝命の席で、勅使を前に詠んだ和歌だという。)

          

散るをいとふ 世にも人にも さきがけて 
散るこそ花と 吹く小夜
              

三島由紀夫


しき嶋の やまとごゝろを 人とはゞ 
朝日にゝほふ 山ざくら花


本居宣長




風さゆる 冬は過ぎて まちにまちし 
八重桜咲く 春となりけり                



昭和天皇

(昭和二十七年四月二十八日に、サンフランシスコ平和条約が発効して、日本が独立を回復したときに詠まれた御製。
 日本はそれまで旧連合国、特にアメリカの占領統治下にあり、言論は統制され、日本の伝統は本質的な危機にさらされていた。
 日本の伝統を背負われた昭和天皇が、この時代を冬と感じ、春を待ちこがれていた大御心がよく感じられる。)
 
 

 高どのの 窓てふ窓を あけさせて
 四方の桜の さかりをぞ見る



 明治天皇

(高く作られた宮殿の窓という窓を開けさせて、よものさくらが盛んに咲き誇っているのを眺める。

 昭和天皇は、祖父である明治天皇を模範とされていた。
 実は昭和天皇は、大東亜戦争開戦前の昭和十六年九月六日の御前会議の際、次の明治天皇の御製を詠んで、開戦を戒める意思をお伝えになられたことがある。
 

 四方の海 みなはらからと 思う世に 
 など波風の たちさわぐらむ



 これは日露戦争の際に明治天皇がお詠みになられた御製とされているが、西南戦争の際にお詠みになられた御製であるとの説もある。
 内容から言えば、西郷南洲翁に深い同情を示された明治天皇が、明治の草創期に内乱の勃発を憂いてお詠みになられた御製とした方がしっくりとくるが、はっきりしたことは分からない。

 いずれにしても戦争を厭う気持ちを詠んだ歌で、明治天皇を模範とされた昭和天皇が、アメリカとの開戦の危機を前にして、政府の指導者たちの前で、この歌を詠み上げたのももっともに思える。
 その昭和天皇は、明治天皇が祖神を前にお誓いになられた「五箇条のご誓文」以来、明治の国是として、日本固有の民主主義が存在したことをよく知っていた。だから、敗戦後、日本人が初めて迎えた元旦の詔書に、この「五箇条のご誓文」を特筆して掲げておられる。
 あの詔書を未だに人間宣言と誤解している人もいるが、あの詔書で天皇が思想的混乱の極みにあった国民に伝えたかったのは、「五箇条のご誓文」という、明治以来のこの国の国是のことであった。それはさらにさかのぼれば、聖徳太子の十七条憲法にまでつながってくる、この国の伝統、もっと言えば国体といってもよいものだ。
 この国の国体、伝統は、七年間の連合国による占領政策によって圧殺しかかっていた。それは昭和天皇のみならず、皇太子殿下(今上陛下)の身辺にまで及んでいた。昭和天皇の春を待ちこがれる気持ちは切実なものだったはずで、先の御製にその思いはよく現れている。

 しかし、本当の春は、昭和二十七年の春に訪れたといえるのだろうか。
 一日の陽気に、いささか気の早いさくらのつぼみがほころんだに過ぎなかったのでは。
 大方の日本人は、どこかインチキ臭さを感じ取りながらもいまだ東京裁判史観に毒されたままだし、マスメディアも当時の言論統制をそのまま受け継いだ報道を国民に垂れ流し続けている。

 日本人がさくらに託す、もっとも深刻な意味での思いにおいて、戦後、一度でも、さくらは咲き誇り、そして、散ったことはなかったのではあるまいか。
 もはや、さくらの樹そのものが、蟲に食い荒らされて、が来れば根っこからすぐ倒れてしまうような、そんな倒壊の危機にさらされているのではあるまいか。) 
 

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紅い英雄・毛沢東と日中友好 ニュース記事に関連したブログ

2012/03/26 17:52

 

「日中友好『世々代々に』毛沢東主席の孫が力説」

産経新聞 2012/03/10 18:39更新

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/549005/

 中国の故毛沢東主席の孫で、人民解放軍のシンクタンク軍事科学院副部長の毛新宇少将(42)が10日、取材に応じ、「中日両国の友好が世々代々、続いていくことを心から希望している」と述べ、今年が日中国交正常化40周年に当たることを踏まえ、良好な日中関係の必要性を強調した。

 毛氏は河村たかし・名古屋市長の「南京大虐殺」否定発言などを念頭に、「両国の間には不愉快な歴史もあった」とした上で、「唐の時代から両国の文化交流は密接だ。両国人民は前を向いて行かなければいけない。中日の友好は世界平和にとって非常に有益だ」と訴えた。(共同)



 毛沢東の孫・毛新宇は人民解放軍の少将にして、シンクタンク軍事科学院副部長だそうである。彼にとって、祖父が残した無限の遺産は、毛沢東思想だとのことである。

「毛新宇」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%96%B0%E5%AE%87

毛沢東思想」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1%E6%80%9D%E6%83%B3

 世界中の知識人を魅了した毛沢東思想の内容についてはよく知らないが、少なくとも、毛本人とその信奉者たちが引き起こした事態の悲惨さについてはよく知られている。
 と言っても、情報統制主義の一党独裁国家であるから詳細はわからないにしても、多くの国民の生活が、命が犠牲になったことだけは確かである。毛思想の信奉者・ポルポトの自国民大虐殺、いわゆる「キリング・フィールド」や、毛自身の「大躍進」政策、プロレタリア文化大革命では多大な人民が犠牲となった。

 私にとって毛沢東とは、思想家というよりも、天才戦略家という印象が強い。それも支那の歴史が生んだ、最大の戦略家の一人ではなかったかと思う。彼が中心となって、政敵である国民党や日本に仕掛けた謀略は、底知れぬ深さを持っている。

 中国共産党が、国民党と日本を戦わせて漁夫の利を得る、という戦略を立てていたのは有名だ。盧溝橋事件は、中国共産党の周到な用意のもとに仕掛けられた謀略であったことが確実視されつつある。作戦の指導者は秘密党員の張克侠で、作戦を承認したのは、後に文化大革命で毛沢東の標的にされた劉少奇である。
 結党以来、中国共産党はソ連の傀儡であったが、支那事変の泥沼化に成功して、国民党との抗争に対する自信を深めつつあった1940年頃から、親ソ派を粛清して、徐々に独自路線を歩み始めた。この粛清「整風運動」を指導したのが毛沢東であった。そして、コミンテルンは1943年に一応解散。東アジアにおける革命工作は、彼らが主に担うようになっていったのである。
 
中国共産党が国共内戦に勝って、中華人民共和国の建国を果したのは一九四九年十月一日のこと。この日北京の天安門広場で、毛沢東首席が建国を宣言した。

 独立総合研究所の青山繁晴氏は、「WILL」2010年11月号増刊号で、中華人民共和国建国以来の歩みを次のように書いている。


 私は今から八年ほど前、ある政府機関の委託を受けて北京の人民解放軍の将軍たちと議論をしました。…(中略)…私と一番時間を掛けて向き合った将軍はとても有名な方で、朝鮮戦争の指揮官の一人でした。彼はこう言いました。
「青山さん。我々は一九四九年十月一日に北京に紅い星を立てて、共産党と人民解放軍による政府を樹立した時、二つのことを誓いました。これは今まで外国の方に言ったことはありません。
 第一の誓いは、中国は二度と周辺諸国に脅かされない。万里の長城のような役に立たないものを作るのではなく、積極的に周辺地域を抑えようと。
 第二の誓いは人口です。当時は重荷だったが、やがてこのたくさんの人口が我々の財産となり、中国を世界一流の国に押し上げる。だから人口はあくまで増やし続けていく。この二つの誓いをドッキングして考えると、一つの国が思い浮びます。わかりますか?」
 私が「それはインドですか」と聞くと将軍は「その通りです」と答えました。インドだけが、やがて中国の人口を追い抜く可能性があるからです。現在の公表人口でない実人口は中国が十四億以上、インドが十二億以上ですが、国連人口担当官の推測では、遅くとも三年後にはインドが抜くと言われています。中国は五十年も前からそのことを見抜いていたのです。


 青山氏によれば、だから中国インドを北から抑え込むためにチベットを押さえた。チベット侵攻は、建国の翌年に始まり、五九年三月のチベット動乱を機に、これを達成した。中印国境紛争が起きたのはチベット動乱の三ヵ月後である。
 この事実は先の将軍の言葉を裏付けている。

 西の次に中国が向かったのは北だ。北方の熊の柔らかい腹の部分を突いた。一九六九年のいわゆる「中ソ国境紛争」である。(ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E3%82%BD%E5%9B%BD%E5%A2%83%E7%B4%9B%E4%BA%89
 同年三月アムール川支流ウスリー川の中洲ダマンスキー島(珍宝島)の領有権を巡る軍事衝突が起き、八月には新疆ウイグル自治区で軍事衝突が起きた。1940年頃から独自路線を歩み始めた中国共産党とソ連の対立を決定的にした事件であった。(これら中ソ間の国境紛争が解決したのは、2004年の中ロ国境協定によってである。これによってユーラシア大陸の第二ハートランド中国は第一ハートランド・ロシアという、後顧の憂いを絶って、本格的な海洋進出に乗り出すことが可能になったと考えることが出来る。)
 

 こうして見ると、人民解放軍将軍が青山氏に言ったことは間違いではないにしても、それは軍の立場であって、一方で、孫文以来の清朝の最大版図を継ぎ、中華帝国を再興するという国是に則ったものであることも明らかだ。青山氏も指摘しているが、それを支えるには資源が必要である。これが中国が資源獲得に貪欲で、膨張し続けざるを得ない事情でもある。

 こうして西、北と、清朝の最大版図回復の動きを見せた中国は、次いで、南に向かってかつての朝貢国ベトナムに膺懲と称して攻め入った。一九七九年の中越戦争である。
 
 西、北、南と来て、あと残っているのは東である。
すでに北朝鮮はほぼ属国状態であり、残るは台湾韓国と日本だ。アメリカの衰退が露わとなったこれからが中国にとって待ちに待ったチャンスである。
 中国が尖閣諸島を我が物にしようとしているのは周知の事実だが、今はしきりに沖縄を琉球王国と宣伝している。これはかつての朝貢国として、再び支配下に置くとの予告である。
 日本本土に対しては、卑弥呼の朝貢を引き合いに出して、植民地化を進めつつあるが、すでに植民は猛烈な勢いで進んでいる。国民のほとんどが、肌で感じて不安に思っているはずだ。最近、至る所、やけに中国人が多いな、と。
 それらの中には、人民解放軍の元軍人などが紛れ込んでおり、豊富な人口を武器にした人民戦線戦術は継承されている。中国共産党の命令があり次第、日本各地で彼らが蜂起すれば、日本はお手上げである。


 さて、これらの路線を敷いたのが、「からごころ」の英雄で紅い皇帝・毛沢東であった。その毛沢東が特に意識していたのが、アメリカとソ連の脅威である。
 ソ連との国境紛争は、一九六九年四月の第九回党大会における林彪による文化大革命宣言に前後して行われている。
  
 毛沢東が文化大革命を始めたのは一九六六年だが、これも国防に関する路線の違いという観点から考察されるべきもので、親ソ派を粛清する目的を秘めたものであった。文革最中の一九七一年七月のキッシンジャー極秘訪中はこういった中で起きたものだ。同年九月にはソ連に亡命しようとした林彪の墜死事件が起きている。

 遡って、彼が推し進めた「大躍進」政策もまた、ソ連モデルからの脱却を意味していた。ソ連モデルからの脱却という事は、中国の実状に適した社会主義国家の建設ということであり、人民公社の全国設置もその発想に基づく。それは毛沢東が豪語した「点と化した敵軍を、人民の海のなかに沈める」との戦術に基づくものであったが、実は人民解放軍の近代化を犠牲にしてでも核保有を優先しようとの目的からであった。毛はその実施の為、国民の犠牲を省みることはなかったのである。その結果、二千万とも、五千万とも言われる桁違いの餓死者を出した。
 それは中国人にとって大変な痛みを伴った、ソ連の属国状態からの離脱、自立を意味していたのである。

 左翼人士はそういった意味も理解せずに賞賛し、親米保守は馬鹿にして笑ったが、今となってはこの点で確固たる意志を持ち続けた毛沢東の高笑いが聞こえてきそうである。現在の中国は毛沢東が敷いた国家戦略を継承発展させて、いまや世界に覇権を唱えようとしている。その存在は、特に、アメリカからの自主独立を先送りにして、未だそれをなしえていないどころか、さらに従属傾向を強めつつある日本にとっては深刻だ。
 それを憂いた三島由紀夫の決起は一九七〇年十一月。彼の鋭い感性はこの問題を敏感に感じ取っていたのだろう。

 毛沢東は日米同盟を恐れたが、戦後の日本そのものを恐れていたわけではない。前回、小林秀雄の随筆を引き合いに出して、戦前の大日本帝国は国策として、支那を最友好国と規定し、国民に強制していた事実に触れたが、その流れは、中国文学・哲学研究者などに見られる支那の伝統文化・思想に対する憧れ、本居宣長が言うところの「からごころ」や、大正デモクラシー以来、日本の知識人の頭脳を席巻していたマルクス主義という、いわば「洋心」のない混じった思潮の存在を抜きにしては語れないだろう。

 日本人は、特に戦後日本人は、日中友好を言われると、魔法がかかったように何も言えなくなってしまう。
 毛沢東は、戦前から一貫しているお人好し日本人の日中友好の精神を逆手にとって、鼻面を引き回してきたのである。
 その現代中国はその戦略を発展継承してきた。


 参考までに1970年頃、中国共産党の工作機関が工作員に発した機密文書「日本解放第二期工作要綱」の一部を紹介しておく。


引用①


偉大なる毛主席は

 「およそ政権を転覆しようとするものは、必ずまず世論を作り上げ、先ずイデオロギー面の活動を行う」

 と教えている。

 田中内閣成立までの日本解放(第一期)工作組は、事実でこの教
えの正しさを証明した。日本の保守反動政府を幾重にも包囲して、
我が国との国交正常化への道へと追い込んだのは日本のマスコミで
はない。日本のマスコミを支配下に置いた我が党の鉄の意志とたゆ
まざる不断の工作とが、これを生んだのである。

 日本の保守反動の元凶たちに、彼等自身を埋葬する墓穴を、彼等
自らの手で掘らせたのは、第一期工作組員である。田中内閣成立以
降の工作組の組員もまた、この輝かしい成果を継承して、更にこれ
を拡大して、日本解放の勝利を勝ち取らねばならない。



 引用②


 第1.群衆掌握の心理戦 
 駐日大使館開設と同時になされなければならないのは、全日本
人に中国への好感、親近感を抱かせるという、群衆掌握の心理戦
である。好感、親近感を抱かせる目的は、我が党、我が国への
警戒心を無意識の内に捨て去らせることにある。

 これは日本解放工作成功の絶好の温床となると共に、一部の
日本人反動極右分子が発する

 「中共を警戒せよ!日本支配の謀略をやっている」

 との呼び掛けを一笑に付し、反動極右はますます孤立すると
いう、二重の効果を生むものである。

 この為に、以下の各項を速やかに、且つ継続的に実施する。

1-1.展覧会・演劇・スポーツ

 中国の書画、美術品、民芸品等の展覧会、劇団、民族舞踊団、
民謡団、雑技団、京劇団の公演、各種スポーツ選手団の派遣を行う。

 第一歩は、日本人大衆が中国大陸に対し、今なお持っている
「輝かしい伝統文化を持っている国」「日本文化の来源」「文を重
んじ、平和を愛する民族の国」というイメージを掻き立て、更に高
まらせることである。(…以下省略)



「日本解放第二期工作要綱」

(その壱)http://yamatogokoro.iza.ne.jp/blog/entry/2303604/

(その弐)http://yamatogokoro.iza.ne.jp/blog/entry/2303623/


 

人民解放軍少将にして、シンクタンク軍事科学院副部長の毛沢東の孫が、我々日本の人民を解放するために、日中友好を唱えて日本人に魔法をかけようとするのもこういった事情からだ。

 「中共を警戒せよ!日本支配の謀略をやっている」

 かく警鐘を鳴らす私などは、彼らからすれば「日本人反動極右分子」ということになるらしい。

 その反動極右分子から警鐘を鳴らしておこう。
 また永田町の反日親中分子が動き出した。民主連合政権樹立の相談だろうか。そう言えば、小沢氏の民主党・党首選立候補と鳩山氏の北京訪問の直後に尖閣諸島漁船事件は起きたっけ。


「輿石、鳩山両氏が別々に習氏と会談」

産経新聞 (2012/03/22 21:39更新 http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/politicsit/551551/

 民主党は22日、中国を訪問する輿石東幹事長が23日午後に北京で習近平国家副主席と会談すると発表した。習氏は次期国家主席への就任が確実視されている。鳩山由紀夫元首相も輿石氏らとは別に23~25日の日程で中国を訪問し、習氏と会談する方向で調整している。鳩山氏は小沢一郎元代表の親書を預かっており、習氏を通じて胡錦濤国家主席に渡す予定だ。

 

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「南京の虚構を暴く!」 日本文化チャンネル桜 討論番組 ニュース記事に関連したブログ

2012/03/23 07:43

 

 日本文化チャンネル桜の討論番組「南京の虚構を暴く!」は必見である。
 南京事件、いわゆる南京大虐殺について自発的に調べてみようとせず、なんとなく、あれほど支那人やマスコミが騒ぐのだから、規模としてはともかく、何らかの事件はあったのだろう、と考えている人は、この討論番組を見れば、そういった考えが一気に吹き飛ぶであろう。
 そして、「南京大虐殺」虚構論者の常識的な見識、態度に触れて覚醒した常識感覚によって、情報の氾濫する現代社会において、マスメディアが垂れ流す情報に対する、それまでような怠惰な生活態度が、いかに常識感覚を鈍磨させ、自身を白痴状態に置くことになるのか、そのことを痛感させずにはおかないだろう。
 この討論を聞けば、もはや虚構論は成立せず、研究の成果は、虐殺論者の主張するあらゆる論点を覆すところまできていることに得心が行くはずだ。


 一党独裁の情報統制国家において、統一された歴史認識は政治的な要請に基づくプロパガンダに過ぎないが、民主制度を採用する国家において、多数決の原理が健全に運営されるためには、正しい認識が前提条件となる。それを提供する点で日本のマスコミやジャーナリズムの大半は失格である。
 日本の政治家、官僚、マスコミの大半がアメリカや中国の統制下にある中で、日本にはまだ、学問の自由、言論の自由が残されている。むしろ真実が危機にさらされ続けてきたからこそ、真の学問が可能であったという逆説が成り立つのではあるまいか。
 日本には起源が定かでないほどの古くから、話し合いによる和の伝統がある。学問の伝統も、この伝統に守られてきたものだ。

 日本列島を焦土にして、日本人に何も言えなくしておいた上で、日本の伝統を破壊し、野蛮な黄色い猿に民主主義を教えてやったと嘯いたのは野蛮なアメリカだった。
 歴史認識をめぐって日本を悪者にしておく、という点で、民主主義を高らかに謳い上げているアメリカもまた情報統制国家である。
 日本の都市の無差別爆撃と原爆投下という大虐殺を国家として認めるわけにいかないのである。動かしようのない事実として、ホロコーストを行った国ですらそうなのだ。
 まして、ホロコーストを行った事実のない日本においてをや。
 それを事実と認めると、子孫たちが悲劇を襲う恐れがある。

 イエスを殺したユダヤ人がキリスト教徒によっていかに悲惨な境遇に置かれ、辛酸を嘗めてきたことだろうか。その行き着いた先にナチのユダヤ人虐殺という悲劇は起きた。
 その悲惨の中で逆に、ユダヤ人救済の発想から、共産主義は生まれ、世界中に災厄をもたらしたとの見方もある。これは歴史の暗部に対する見方だが、マルクスにせよ、その盟友エンゲルスにせよ、レーニンにせよ、ユダヤ系である。
 日本が、その国内においてユダヤ人を迫害しているロシアと戦争したとき、これを援けたのはユダヤ資本であったのは有名だ。このときアメリカは講和を斡旋して日本を助けたが、ユダヤ人を迫害するナチスドイツと組んだとき、日本を徹底的に叩いた。ロシア戦争時の米大統領はセオドア・ルーズベルトであり、日米戦争時の大統領は甥のフランクリン・ルーズベルトである。ルーズベルト家の起源はユダヤである。

 これは近現代史に対する一つの切口だが、共産主義が日本をターゲットにし、これを動かしてきたのがユダヤ系である以上、偶然の一致と切り捨てるわけにはいかないだろう。
 少なくとも国際社会を動かす大きな要因は、怨望である。ユダヤ系の怨望をその要因の一つとして否定する理由は何もない。

 現在、南京大虐殺を大々的に主張し、国際社会へのプロパガンダを精力的に進めようとしているのは、建国以来、周辺国と十二回の戦争を経験し、チベット人やウィグル人を虐殺し続けてきた中華人民共和国である。
 胡錦濤チベットでの、次期国家主席の習近平はウィグルでの、弾圧を評価されて国家主席に上り詰めた人物だ。特に習近平は人民解放軍の影響力が強い人物である。
 怨望渦巻く中国という軍事大国が、今、五大州に押し出そうとしている。当面の目標は東、すなわち日本だろう。

 南京大虐殺は日本侵略の口実として利用されるに違いなく、我々は先人の濡れ衣を晴らして、将来の禍根を絶っておかなくてはならない。 

 逆境にもめげず、南京大虐殺の虚構を暴く仕事に取り組んでこられた方々には敬意を表したいと思う。と同時に、学問的準備の整った現在、次になされなければならないのは、虚構論が世界の常識になるよう、いかに情報を発信していくか、ということだろう。


1/3【討論!】南京の虚構を暴く![桜H24/3/17]
http://www.youtube.com/watch?v=7BD4EeZl71U

2/3【討論!】南京の虚構を暴く![桜H24/3/17]
http://www.youtube.com/watch?v=b_XaRjfjvE8

3/3【討論!】南京の虚構を暴く![桜H24/3/17]
http://www.youtube.com/watch?v=soBmChuHDhM
 

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南京大虐殺 vs通州大虐殺 ニュース記事に関連したブログ

2012/03/13 16:56

 

『「大虐殺否定罪」を提案 中国全人代代表』

2012/03/10 20:40 「産経新聞」
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/diplomacy/549027/

 中国の通信社、中国新聞社は10日までに、北京で開会中の全国人民代表大会全人代=国会)に、代表の鄒建平南京芸術学院教授が「南京大虐殺否定罪」の制定を呼び掛ける提案を行ったと報じた。

 河村たかし・名古屋市長の「大虐殺」否定発言を受けた提案で、江蘇省の代表36人が署名したという。

 全人代で提案が取り上げられる見込みはないが、鄒教授はドイツなどが第2次世界大戦中のホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)否定を違法としている例が参考になるとしている。(共同)



 南京大虐殺が、ドイツのユダヤ人大量虐殺と同様に、動かぬ歴史的事実というならともかく、南京大虐殺説の歴史、すなわち、この説がいつ、どのように主張されるようになったかの歴史を紐解けば、それが蒋介石の国民党によるプロパガンダに端を発し、コミュニストによって利用されてきた虚構であることは明らかだ。すでに一次史料による堅実な研究の蓄積はある。南京大虐殺の証拠写真とされてきた物の全てがいまや捏造であったことが証明されているのだ。
 だから南京大虐殺虚構論者は事実に基づく反論は行うが、虐殺肯定論者の言論を封殺しようとの意図は微塵もない。この態度が情報戦を戦う上での弱みともなっているのであるが、一方で、虐殺肯定論者は、否定論者に歴史修正主義とのレッテルを貼って、議論よりも、陰に陽に言論を封殺しようと目論む。

 転載記事のような動きが出てくるのはそのためだが、それは彼らがそもそも言論統制主義だからでもある。それは支那文明の遺伝子、すなわち「からごころ」と言っていものだ。
 だから日本国内においても、「からごころ」に支配された知識人・文化人のこれに同調する動きは後を絶たない。いや、それどころか、マスコミの大半は現在これに支配されていると言っていいほどである。

 中国共産党指導部は、「南京大虐殺否定罪」制定の提案を取り上げない方針のようだが、これは賢明だろう。
 そもそも中国共産党が制定した法が、なぜ日本国内に適用されなければならないのか。中華意識に基づく、領土意識を欠いた彼らの法意識は国際社会の物笑いになるだけだが、他国を自国の領土の如く扱うこの動きは、中国が軍事大国となり、日本国家中枢に対する工作が完成の域に達してしまった今となっては脅威以外の何物でもない。
 中国共産党指導部が足元から立ち上がったこの動きを容認する理由は、ひとつは中国国内の世論に対する配慮であり、国際社会に対する宣伝であり、さらには、日本国内の親中派・媚中派に対して、否定論封殺の発破をかける意図もあるものと思われる。つまり、日中友好の妨げとなる虚構論者をしっかり取り締まらんか、というわけである。そこで、震え上がった媚中派は、虚構論者は歴史修正主義でけしからん、と血相を変えることになるわけである。

 もっと踏み込んで考えれば、こういった動きが自然発生的なものであるとは考えにくく、当局が日本を牽制する為にわざとやらせた、いや、実態がなくとも、御用報道機関にそう報道させた、と考えた方がいいように思える。
 つまり、これもまた、情報戦の一端であり、彼らが言うところの「超限戦」、つまり手段を択ばぬ無制限戦争の一貫と言うわけだ。そもそも南京大虐殺が虚構である以上、そう考えた方がいい。ともかく彼らは骨の髄まで、賢しらな「からごころ」で動いているのである。我々日本人の常識は通用しない。

 こういった中国の傲慢な態度に、日本の一般国民が反発するのは、健全な反応であろう。


(参照;青木直人ブログ記事 

「河村発言と『へタレ』メディアの病理」 http://aoki.trycomp.com/2012/02/post-363.html

「日中友好協会の正体」 http://aoki.trycomp.com/2012/02/post-364.html

 

 そもそも日中友好は、戦前からの日本の国是であった。その根底には、阿片戦争以来、西欧に侵食され続ける支那に対する幕末以来の日本人の同情があった。

 小林秀雄の随筆『考えるヒント』に次のようなくだりがある。


「のらくろ」が書き始められたのは昭和六年だが、この新兵は大尉に昇進するのに十一年かかっている。…(中略)…「のらくろ」大尉は、悶々として満州に渡った。大東亜の共存共栄が、当時の政府のかかげた理想であり、「五族協和」は満州国の憲法であった事は、誰も知るところだ。勢い、「のらくろ」も、満州に行くと、仲間以外の附き合いもしなければならず、と言って、作者としては、漫画の構成上、人間を出すわけには行かず、ロシヤ人めいた熊や朝鮮人めいた羊や中国人めいた豚を登場させる仕儀となった。或る日、作者は、情報局に呼び出されて、大眼玉を食った。ブルジョア商業主義にへつらい、国策を侮辱するものである。特に、最友好国の人民を豚とは何事か。翌日から紙の配給がなくなった。
 なぜ、私がこんな事を知っているかというと、田河水泡は、私の義弟だからである。
 


 戦前日本の植民地であった台湾には、日本の敗戦後、国共内戦に敗れた
蒋介石率いる国民党が渡ってきたが、台湾の人々は、犬が去って豚が来た、と言ったという。漫画「のらくろ」の記憶が台湾人にはあったのだろう。日本人と支那人の双方を実際に見てその比喩の的確さを確かめた、ということであったと思われる。
 日本は台湾に巨大な投資を行って、近代化を図ったが、敗残の支那人がその遺産を食い散らかした、その有様を見ての評であった。台湾人の親日感情が本物であることはいまや常識である。

 小林秀雄の随筆にあるように、大東亜の共存共栄 五族協和、日中友好最優先は、大日本帝国の国策であった。国民が強制されるほどの国策であった。
 その点、日中友好は戦後も政府やマスメディアに何気なく国民は強制されている。そこには露骨な強制か、隠微な統制かの違いがあるだけだが、中国の影響が今以上になれば、いずれ露骨な強制に転ずるであろう。今はその転機にあると言えるかもしれない。すでに政府、警察は、状況によっては、国内にいる支那人は保護しても、日本国民を保護しないことが、二〇〇八年四月二十六日の長野聖火リレー事件以来明らかになっている。


 さて、このように支那に対し同情と友好を以て交わろうとした戦前の日本であったが、それは仇を以て返された。
 中国に対する日本国民の感情を極度に悪化させたのが、媚中派が決して触れようとはしない、いわゆる通州事件である。

 この事件については、次の記事を参照していただきたい。


「通州事件」 http://yamatogokoro.iza.ne.jp/blog/entry/2313718/


 あるいは南京大虐殺という支那人のさかしらな作り話は、支那事変の直前に通州で起きた、日本人虐殺事件を打ち消し、返す刀で日本人に責任を転嫁する意図で、膨らませた妄想だったのではないか、という気がしてくる。その際、通州における、支那人の日本人に対する残虐な仕打ちが、虚構創作のモチーフにされたのではなかったか。
 しかし、それは、この事件に限らず、数々の歴史の断面で顔を出す、支那人の遺伝的な嗜虐性の現れであった。
 魯迅の『狂人日記』を引き合いに出すまでもなく、食人は支那の文化なのである。
 

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直毘霊(なおびのみたま) ニュース記事に関連したブログ

2012/03/09 08:24

 

本居宣長がまことの道を論じた『直毘霊』全文を掲載しているサイトがあったので、紹介させていただく。

『直毘霊・原文』 http://www.norinaga.jp/shoin/naobitama.html


『本居宣長研究ノート「大和心とは」』 http://www.norinaga.jp/index.html


 サイト管理者の「海彦」氏の巻頭言には全く同感である。

 氏による解説も、今となっては難解な宣長の思想を、世界の宗教、思想を鳥瞰した上で、分かりやすく説いていて、大変優れたものとなっている。小林秀雄の『本居宣長』から入った私には、なるほどそういうことか、という、眼から鱗の解説も少なくなかった。

 日本人とは何か、という厄介な問題を極北まで問い詰めた思想家といっていい本居宣長に関心がある人には是非読んでいただきたいサイトである。

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南京大虐殺のこと (追記) ニュース記事に関連したブログ

2012/03/03 17:37

 

例によって支那人のさかしらな作りごとの話。

嘘も百回言えば真実となる。

ヒトラーの言葉と思っていたが、出典は違ったようだ。


ヨーゼフ・ゲッベルス

「もしあなたが十分に大きな嘘を頻繁に繰り返せば、人々は最後にはその嘘を信じるだろう。嘘によって生じる政治的、経済的、軍事的な結果から人々を保護する国家を維持している限り、あなたは嘘を使える。よって、国家のために全ての力を反対意見の抑圧に用いることは極めて重要だ。真実は嘘の不倶戴天の敵であり、したがって、真実は国家の最大の敵だ。」


(次のブログより転載;http://techpr.cocolog-nifty.com/nakamura/2011/06/post-5fef.html

 中国という国家にとって次の真実は最大の敵だろう。


◆「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 2月25日 

http://melma.com/backnumber_45206_5500369/


(読者の声)

 中国が傲慢にも河村名古屋市長の当然の正しい発言にいちゃもんをつけてきていますが、全く愚かなことです。
 なぜなら2年前に胡錦涛主席が来日した折に、「南京事件の真実を検証する会」(会長:加瀬英明)が中国文の公開質問状(下記に添付)を中国大使館を通じて送っていますが、彼はこれにこたえていないからです。
 これは中国語、日本語、英語で発信する会のサイトに掲載され、世界各国のアジア関係学者、マスコミ、大使館関係等4000名ほどにメール送信もされています。
 お読みになればおわかりのように、これを読んでまだ「南京虐殺があった」と考える人がいたとしたら、その頭の構造を疑いたくなるでしょう。
 決定的なポイント5点についてどうにも答えられない、というのが中国の側の事情であることがよく理解できるかと思います。
 読者の皆様にお願いします。この文書を使って、河村市長の応援活動を是非実行してください。
 既に「新しい教科書をつくる会」(藤岡元会長は検証する会の事務局長)のメルマガでこの公開質問状が発信されていますが、有効活用が出来るかと思います。
 特に大村知事、藤村官房長官にはこれを送り、「あなたはこれに反論でも出来るのですか」と迫ってみるのはどうでしょう。それぞれのお立場で、メールでもいいですし、ファックスでもいいですし、手紙でもいいですし、電話でもいいですし、はては面談でもいいですし、それぞれ可能な方法で、これを活用して糾弾活動を展開していただければとお願いする次第です。
平成24年2月24日         
       「史実を世界に発信する会」事務局長 茂木弘道拝

(参考添付)
胡錦濤国家主席閣下への公開質問状

このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の友好を願う者として心より歓迎申し上げます。

 さて、われわれは1937年12月に行なわれた日中南京戦に伴って起こったとされる所謂南京事件を検証すべく、研究して参りましたものです。貴国のこの事件に対する見解とその取り扱いにつき、深刻な憂慮を感じております。昨年南京屠殺記念館が大規模に拡張改装されましたが、一方で友好を唱えながらこのような非友好的なことを平然と行なう貴国に対して強い不信の念を感じざるを得ません。そもそも南京で大虐殺があったという論拠は最近の研究によって根本的に否定されつつあります。以下重要な5つのポイントについて閣下のご見解を伺いたく、謹んでご質問申し上げます。

一、故毛沢東党主席は生涯にただの一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後に延安で講義され、そして『持久戦論』としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」という批判のみです。30万市民虐殺などといういわば世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは、極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?

二、南京戦直前の1937年11月に、国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』によりますと、南京戦を挟む1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公館職員は平均35名と記録されています。しかし、この300回の記者会見において、ただの一度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていないという事実について閣下はどのようにお考えになられますか。もし本当に大虐殺が行なわれたとしたら、極めて不自然で不可解なことではないでしょうか?

三、南京安全区に集中した南京市民の面倒を見た国際委員会の活動記録が『Documents of the Nanking Safety Zone』として、国民政府国際問題研究所の監修により、1939年に上海の英国系出版社から刊行されています。それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前20万人、その後ずっと20万人、占領1ヵ月後の1月には25万人と記録されています。この記録からすると30万虐殺など、到底ありえないとしか考えられませんが、閣下はいかがお考えでしょうか?

四、さらに『Documents of the Nanking Safety Zone』には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが、殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害と注記されています。この記録と30万虐殺という貴国の主張とは、到底両立し得ないと考えますが、閣下はいかが思われますか?

五、南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の屠殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されています。しかし、その後の科学的な研究 (『南京事件の「証拠写真」を検証する』(東中野他・草思社)など) によって、ただの1点も南京虐殺を証明する写真は存在しないことが明らかとなっております。もし、虐殺を証明する写真が存在しているのでしたら、是非ご提示いただきたいと思います。そのうえで検証させていただきたいと思います。

以上述べました5つの点は南京で大虐殺があったなどということを根本的に否定しているものとわれわれは考えざるを得ません。上記5つの点につきまして、閣下のご見解を承ることができれば幸いです。この問題は多くの日中国民の関心事と考えますので、公開質問状として提出させていただきます。子子孫孫までの日中友好を願うものとして、閣下のご高配を、衷心から期待しております。
           平成20年5月5日
           南京事件の真実を検証する会委員一同
(会長)加瀬英明 (事務局長)藤岡信勝 (監事)冨沢繁信 茂木弘道
(委員)阿羅健一 上杉千年 小林太巌 杉原誠四郎 すぎやまこういち 
高池勝彦 高山正之 西村幸祐 花岡信昭 東中野修道 溝口郁夫 宮崎正弘




◆「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 3月3日

http://melma.com/backnumber_45206_5506261/

(読者の声)

 『Eyewitness to Massacre』(虐殺の目撃証人)という本がアメリカでM.E.シャープ社から出ています。サブタイトルは「南京における日本軍の残虐行為の目撃証人のアメリカ人宣教師」となっています。
 この本はエール大神学図書館に所蔵されている、南京にいた宣教師10人が家族や友人に送った手紙などの資料をまとめたものです。宣伝目的が希薄な本音の記録と見ることができますので、もしここに日本軍の虐殺行為が具体的に記されていたとすると、有力な虐殺証拠となってきます。
 しかし、案の定といいますか、よくよくこの記録を確かめて行くと、この手紙の中に只の1件も虐殺を目撃したという事が出てこないのです。松村俊夫さんが検証し、その結果を文章にまとめたものが、「アメリカ人の「南京虐殺目撃証人」は一人もいなかった」です。

http://hassin.org/01/wp-content/uploads/NO-AMERICAN-J.pdf

 この論文の大要は『正論』2月号、3月号に「南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録」と題して掲載されました。

 アメリカ人が決定的な南京虐殺資料と思いこんでいた資料が、実は南京虐殺はなかったことの決定的な証拠となったわけです。河村名古屋市長が「南京戦はあったが、虐殺があったとは思えない」といわれているのは全く正しいことです。有力な応援資料となると思います。
 この英文訳を発信する会のサイトに掲載し、下記の通り、海外のマスコミ、学者、他400名ほどにEmail 発信しました。 
  (発信する会  茂木弘道)

 

 

 

(追記)…「嘘も百回言えば真実となる」の格言は、コミンテルンの大物指導者カール・ラディックの言葉であることを知った。

「カール・ラデック」ウィキ解説;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AF

 彼はスパイとしてのゾルゲの育ての親である。彼のモットーは「嘘は真実であり、真実は嘘であり、白は黒、黒は白である」だったという。ならば当然、彼の倒錯した思想からすれば、南京大虐殺は真実であり、我々の主張する虚構論は嘘ということになる。議論の余地など、はなからないわけだ。
 問題は世論がどちらを支持するかということに行き着かざるを得ない。

 

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